国立東京高専の仲良しトリオ
はじめまして。今日は当時の話を交えながら、『ブレーンメディア』のタイトルについて色々と教えていただけたらと思います。さっそくですが、お三方はどんな関係なのですか。
浅香 当時、僕らは国立東京工業高等専門学校の電子工学科の同級生でした。技術の学校でしたから、当然のことながらパソコンに興味を持っていました。といっても最初からゲームが作りたいというわけではなく、パソコンで何かしてみたいと考えているうちにゲームに行き着いた感じです。
なるほど。黎明期のゲーム開発者ってそういう人が多かったですね。最初からゲームと決めていたわけではなく、パソコンという可能性のある箱に魅了されて、アレコレと模索していたらゲームというエンタテインメントにたどり着いた、みたいな。『ブレーンメディア』については後ほどお聞きするとして、学生生活はどんな感じだったのですか。
田中 学生なので勉強はもちろんですけど、学校の大型コンピュータで遊んだりしていました。当時はパンチカード(厚手の紙に穴を開けて、位置や有無から情報を記録する媒体)にプログラムを専用のタイプライタで打ち込んで、結果は紙に出力されるといった時代でした。それで重ね打ちで濃淡を作ってマンガのキャラクターなどを描くこともありました。
アスキーアートのはしりですね。
田中 そうですね。なにせ出力が紙なので遊ぶといってもそんなことくらいしか出来ませんでした。余談ですけど、同学年にポケモンの生みの親として知られる田尻さんもいました。彼はすでに学内よりも学外での活動に力を入れていて、あまり僕らとは一緒に遊ぶことはなかったですが。
技術の学校ということで、なんだかお堅い学生が多いのかと思いましたが遊び心のある学生が集まっていたのかもしれませんね。
浅香 かもしれません(笑)。
山崎 私は学校帰りに新宿を経由して帰宅していたのですが、毎日のように新宿のラオックスに足を運んでいました。何度も店舗に通っていると店員さんと仲良くなり、店頭デモを作成してくれないか? と依頼されまして。
当時の店頭デモと言うと、ひたすら描画するとか、そういうやつですか。
山崎 そうですね。私は合成音声を使った店頭デモなどを作成していました。当時のパソコン売り場は、店員さんもお客も一緒になって試行錯誤していたように思います。なので、お店を中心にパソコン好きが集まり、コミュニティが出来ていたように思います。
『ブレーンメディア』設立秘話
『ブレーンメディア』はどのようにして生まれたのですか。
浅香 田中 山崎から「ラオックスが新しく『ブレーンメディア』というゲームブランドを立ち上げるので、ゲームを作ってみないか?」という話を聞いたのがきっかけです。
山崎 確か1981年のことだったかな。新宿のラオックスに出入りしていたことはお伝えしましたけど、ある日ラオックスに行くと「新たに『ブレーンメディア』というゲームブランドを立ち上げるから、ゲームを作って持ってきてくれたら販売するよ」と聞いたんです。そこで浅香と田中に『ブレーンメディア』に参加してゲームを作ろう! と声をかけたんです。
なるほど。3人でブランドを立ち上げたわけではなく、山崎さんが起点となって、ラオックスが立ち上げたゲームブランドの『ブレーンメディア』に参加したんですね。
田中 そうですね。だから僕ら以外の人たちも作品を提供していました。なので『大石油王』とか『The FarWay』『ポーピィ』を開発したのは僕らではないです。
ショップがオリジナルゲームを発売するというのは、当時のゲーム業界ではよく見られましたね。あの日本ファルコムだって前身はパソコンショップでしたし、九十九電機も昔はオリジナルゲームを販売していました。当時のゲームショップには、パソコン好きが集まり、店員さんもお客も関係なく情報交換や発信するような不思議なパワーがあったように思います。
『ブレーンメディア』のゲーム開発
当時のゲーム作りはどんな感じでしたか。企業にゲームを提供するとなると、趣味のゲーム開発と違って納期とか色々な制約があって大変だったのでは?学業との両立もあったと思いますし。
田中 いや、実はそういうのは全くなかったんです。納期で急かされたこともなかったですね。ゲームを持っていくと、パッケージを作ってくれて販売になるという感じでした。ギャラについては、パッケージが売れるごとに何%かロイヤリティを貰える契約でした。ずいぶん昔のことなので忘れちゃいましたけど、たぶんそういう契約ごとは交わしていたと思います。そういえば、タイトルによっては時給で開発していたタイトルもありましたね。
かなり自由だったんですね。では、具体的にタイトルについてお伺います。
田中 私はパソコンゲームに処理速度を求めるタイプではなかったので、主にアドベンチャーゲームを開発していました。代表作は宇宙船内を舞台にエイリアンとの争いを描いた『ALIEN EQUATIONS』 (1983年)です。
映画『エイリアン』みたいですね。どういったところからそうしたゲームを作ろうと?
田中 本作は古典SF『冷たい方程式』のオマージュなんですよ。『冷たい方程式』では定員分の燃料と酸素しか積まれてない宇宙船に少女が密航したことで、このままでは全員が目的地に到着できない。だから密航した少女を船外に追い出さなければ……といった物語です。本作はそれにインスパイアされて、宇宙船を舞台に侵入したエイリアンを船外に追い出す物語が楽しめます。タイトルについている“EQUATIONS”は、『冷たい方程式』の原題であるTHE COLD EQUATIONSからお借りしています。
『ALIEN EQUATIONS』 を開発にあたってのこだわりはありますか?
田中 アドベンチャーゲームでは、ある場所で表示は1シーンのみというものが好きではなかったので、本作ではミステリーハウス方式とでも言えばいいのでしょうか。同じシーンでも向いている方向などによって違うシーンを見せるようにしていました。このあたりはちょっとしたこだわりだと思っています。そういえば、当時のアドベンチャーゲームはラインとペイントで描画するものが多かったように思います。本作でも特にスピードは重視しないゲームだったことからBASICで開発していましたが、さすがに描画に関しては遅いな、ということで描画ルーチンは浅香や山崎の力を借りて開発していました。
山崎 私と浅香で描画ルーチンの速度を競って勝った! 負けた! なんてやっていましたよ。結果、私が負けたけど(笑)
それは楽しそうですね。他の作品はどうですか。
浅香 僕が担当したのは『ギャラクトロン』 (1983年)と『ファイア・ドラゴン』 (1984年)の2作品です。『ギャラクトロン』 はエネルギー補給の要素があるシューティングゲームでで、『ファイア・ドラゴン』 はヘルメット型ロボットを操作して火薬でドラゴンを誘導して敵を倒すアクションゲームです。
両作品について、思い出はありますか。
浅香 当時はゲームの発表の場って雑誌かコンテストくらいしかなかったように思います。そんな中で、エニックス主催「第1回ゲーム・ホビープログラムコンテスト」で準優勝に輝き、1983年にパソコンゲームとしてリリースされたアクションゲーム『ドアドア』(1983年)は、『ファイア・ドラゴン』 を開発するにあたって大きな影響を受けたように思います。
『ドアドア』といえば主人公のチュン君とモンスターのコミカルな戦いを描いたアクションゲームですね。ジャンプによる避け、ドアの開閉によるモンスター退治など、とてもユニークなゲームシステムを採用していました。『ファイア・ドラゴン』 の導火線を引いてドラゴンを誘導するというユニークなゲーム性も『ドアドア』の影響があったということですか。
浅香 そうですね。あと『ファイア・ドラゴン』 ついては長く遊んでもらいたいとの思いからマップエディットなども付属しており、最大で300面が遊べるようにしました。レベルデザインなどでは田中や山崎に頑張ってもらった記憶があります。
山崎 あれは大変だったな。とにかくマップ数が多かったですね。
浅香 もう片方の『ギャラクトロン』 は、『ギャラガ』(1981年)に影響を受けて作ったように記憶しています。ちなみに、どちらも動きがあるゲームなので、少しでも高速化しようとアセンブラで開発しています。
田中 そういえば、発売には至らなかったけど『オブジェクター』 というタイトルを同級生を誘って5人くらいで開発していた時期もありました。
それは聞いたことがないタイトルですね。
田中 ええ。色々ありまして結局、発売されませんでした。残念ながら資料なども残されていないと思います。
もったいないですね。せめて資料だけでも見たかったですね。
個性的なパッケージの秘密
ところで、『ブレーンメディア』のパッケージって個性的なイラストが多いのですが、これはどうやって決まったのでしょうか。
田中 実はこれ、ラオックスの社内で絵がうまい人が描いたものなんです。もう時効だと思うから言ってしまうけど、当時、『ALIEN EQUATIONS』 を発売することになった際に、これがパッケージイラストだとイラストを見せられたときはずっこけましたよ。えー!これなの? なんか違うぞ!って(笑)。
今見ると味がある良いイラストだなと思いますよ。
田中 まあ今ではそうかもしれませんが、当時はね(苦笑)。複雑な気持ちでパッケージを眺めていた記憶があります。なので、浅香が『ファイア・ドラゴン』 を開発したときには同じ思いはさせまいと頑張りました。同級生の絵がうまいやつを捕まえて「飯を奢るから!」とお願いしてイラストを描いてもらいました。たしかイラストはセル画で描いてもらったように記憶しています。でも、そのお陰で良いパッケージが出来たと思っていますよ。
なるほど。確かにこうしてみると『ファイア・ドラゴン』 だけはかなり違うパッケージイラストですね。
浅香 そうですね。事前にキャラクター設定などをしっかり伝えて描いてもらいました。このパッケージは結構、気に入っています。
なるほど。パッケージひとつをとっても、昔ならではの苦労やエピソードがあるものですね。ところでD4Eに連絡をくださったきっかけってなんだったんですか。
浅香 田中 それは山崎から「D4Eってところが『ブレーンメディア』の権利を取得したみたいだけど」と声がかかりまして……。
いつも起点は山崎さんなんですね(笑)。
青春時代にパソコンショップに出入りしていたら、ゲームを発売するチャンスに恵まれるというパソコンゲーム黎明期ならではのユニークはお話を聞かせてくれた浅香氏、田中氏、山崎氏。卒業する頃には「ブレーメンメディア」はなくなってしまいゲーム開発は一段落。卒業後はそれぞれ知見を活かしたお仕事をされているそうだが、卒業から37年経過した今でも時々会っているそうだ。
インタビューの際には当時のパッケージや掲載誌を持ち寄り、その思い出を語る3人はとても楽しそうで、彼等にとっての『ブレーンメディア』は、まさに青春時代を象徴する特別なプロジェクトだったことをうかがい知ることができた。
2023.12.22 掲載
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