佐藤辰男、コンプティーク編集長時代を語る!

ゲームメーカー行脚の思い出

hally
さまざまなゲームメーカーさんと、広いお付き合いがあると思うんですけど、『コンプティーク』時代に特に印象的だったメーカーさんを挙げるとすれば、どこでしょうか?
佐藤
創刊のころ、BPSのヘンク・ロジャースとコンラッド小沢が飛び込んできて、「こんな面白いゲームがあるからお前紹介しろ」と言ったのが、とても印象的でしたね(笑)。

それから、とても長いお付き合いになるのが、日本ファルコムの加藤さんですね。ボーステック(プロジェクトEGGの旧運営母体)の八巻さんともお会いしましたし、T&E SOFTにもよく行きました。

パソコンゲームが始まったばかりの時代だったんで、みんなものすごく元気がよくて、楽しかったですね。
hally
人と会うこと自体が楽しいという感じだったんでしょうね。「ここに行けばこういう人がいる」という感じで。
佐藤
創刊号のとき、いよいよ編集が佳境に入った頃になって、広告が足りないって分かったんです。それで「とにかく広告をもらいに行こう!」ということになって、四~五日かけて全国を回ったんですよ。それが最初だったかもしれないね。
hally
そこで広告が取れなかったら、スタートできなかったかもしれないんですね。
佐藤
そうそう、とにかくもう必死だったんで、かなり強引に広告を取って……。もらえたらすぐ台割担当に電話して「1ページ入れて!」とか言って。
hally
そういえば初期の『コンプティーク』は、競合他誌に比べて、広告が少なかったですね。『ログイン』などには対照的に、広告がぎっしり入っていて……。
佐藤
角川書店でしたからね。「パソコン雑誌?何だそれは?」とか言われてしまう時代だったんで、最初はね。
hally
広告は少ないのに、ボリューム感はちゃんとありましたし、カラーページも多かった。目に見えないところでの頑張りがあったわけですね。

ところで『コンプティーク』の編集を始めた時点で、パソコンはお持ちだったんですか?
佐藤
FM-7を持っていましたね(編注:1983年当時の最新鋭機)。
hally
その後は編集部にもどんどんパソコンが導入されていったんだと思いますが、当時の編集スタッフは、角川書店内から集まったのか、外部からこれは使えそうだという人たちを集めてきたのか、どっちだったんでしょうか。
佐藤
外部ですね、角川書店の内部にパソコンのリソースはなかったですから……。そもそもが書籍の出版社ですし。
hally
アナログからデジタルという流れに魅せられた人たちが、集まってきたということですか。
佐藤
そうですね、長い時間をかけてですね。
hally
佐藤さんが1983年から1992年まで編集長を勤めていらっしゃいましたが、最後がこの号ですね。
月刊コンプティーク 1992年4月号表紙

出典:月刊コンプティーク 1992年4月号表紙

佐藤
この頃、『コンプティーク』から派生した雑誌が五つぐらいあって、その全部で編集長やってたんです。『コンプティーク』以外では、『マル勝』系のゲーム雑誌と、漫画雑誌の『コミックコンプ』まで。これでは身体がもたんなあということで、どんどん後任者に譲っていったんです。
hally
『マル勝ファミコン』から、さらに『マル勝PCエンジン』が派生したりと、勢いが止まらなかった時期ですね。
佐藤
1986年に『マル勝ファミコン』が出てくるんですが、そこから次々雑誌が出てきて、1992年に僕は常務になっているんですね。